COLUMN
大学卒業後、病院の管理栄養士として勤務し、結婚・出産を機にフリーランスで活動している中本絵里さん。野菜ソムリエや健康運動指導士などの資格を持つ中本さんに管理栄養士になったきっかけ、現在の活動についておうかがいしました。

身近なところにあった糖尿病

管理栄養士に関心を持ったのは、子どものころに糖尿病に触れる機会があったからだと思います。小学校時代の友人が1型糖尿病でした。1型糖尿病とは、生活習慣などの影響で発症する2型糖尿病とは異なり、すい臓のβ細胞が破壊され、インスリンが欠乏することによって起こります。友人が入院したり、インスリンの注射を打つ姿を身近なところで見たりする機会がごく身近にありました。

高校生のころ、友人に事件がありました。とある授業で、先生が「糖尿病はぜいたく病だ。」と糖尿病について説明したんです。それを聞いた友人は心を痛めていました。その当時は、1型糖尿病と2型糖尿病の違いも知られていなくて、まだまだ理解が得られていませんでした。

友人の姿を見てはいたものの、まだどこか他人事のようなところがあった私ですが、高校生の終わりごろ、父親が糖尿病になったことで、より糖尿病を身近に感じるようになりました。もともと食に関して興味があったということもありますが、糖尿病の療養で苦労する人たちの役に立ちたいという気持ちから管理栄養士を目指すようになりました。

病院実習で感じた違和感

その当時、管理栄養士の養成コースがある大学は今よりまだ少なく、地元の京都から離れた山口にある大学に進学しました。糖尿病の療養にたずさわりたいという強い希望がありましたので、大学の実習先は京都にある糖尿病に関係する病院を選びました。その当時は、糖尿病の患者さんの役に立ちたいという熱意が強すぎて、病棟を訪問した際は、患者さんのお話に感情移入してしまって、泣きながら長時間、おひとりのお話を聞いていました。ただ、実際の病院の仕事では、そこまで感情的に入り込むということはないんですね。私もまだ若かったので、そこのところが理解できず、病院の現場と気持ちの部分でギャップを感じてしまい、病院で働きたいという気持ちが急激に冷めてしまいました。

大学卒業後、最初の就職先は東京の給食委託会社でした。しかし、入社の1ヶ月後に父親が倒れてしまい、配属される前に会社を辞めて実家に帰ることになりました。地元に帰ったのはいいものの、関西では管理栄養士の仕事はなく退職し、エステサロンで栄養相談の仕事を見つけても、実際には営業の仕事だったりで、3ヶ月ほど仕事を探していました。そんな中、大阪の病院で赤ちゃんのミルクを作る調乳の補助のアルバイトを見つけて働きはじめました。アルバイトでは、調乳以外にも給食の配膳などを手伝うこともありました。一度は自分には合わないと思った病院の仕事でしたが、やはりちゃんと病院で仕事をした方がいいのではないかと思い直し、病院に就職することにしました。

その当時の病院での管理栄養士の仕事は、病棟での栄養相談は少なく、給食管理の仕事がメインでした。給食の仕事は患者さんが食べ物を喉につまらせるような事故がなく、食中毒も起こさないということが普通のことだと思われていて、毎日安全に食事を提供しても、それだけでは評価されません。一方で何か問題が起こると管理栄養士の責任になります。また、配膳の時の音がうるさいとか、目玉焼きが硬いとか、そういった苦情や、給食の委託先とのトラブルなどに追われるように仕事をし、理想とは違う現実に疲れていきました。患者さんから、おいしかったと声をかけられたり、栄養相談した患者さんから感謝の手紙をもらったりするとやる気も出てきますが、このまま仕事を続けていっていいのかと思い悩むようになりました。そんなこともあり、結婚のタイミングで病院を辞めました。

続きはこちら >>管理栄養士の仕事について情報発信することの大切さ② - 中本絵里さん

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